北京オリンピックに向けて進めてきた<中国の神話シリーズ>の制作がピークを迎え、今年のマークエステルは極めて多忙である。昨年、ライフワークである<古事記シリーズ>が、壮大な画集『日本神話by Marcestel』としてまとめられ、七カ国語で出版された。画集は評判を呼び、財団法人神道文化会創立六十周年記念として外国人として初めて文化奨励賞が授与された。
そして、お隣の中国では、有力な支援者の一人が天上高7メートルのアトリエをマークエステルに提供、新美術館での発表が準備されている。アジア各国のプロジェクトへのオファーと、有力画廊との契約がつづきうれしい悲鳴を上げている。
マークエステルはパリ生まれコートダジュール育ちの生粋のフランス人である。にもかかわらず何故彼は、繊細な情を有したアジアの人々をここまで捉えるのだろうか。
彼は、世界中の神話を描き続ける。日本や中国、マレーシア、ベトナム、そしてギリシャにエジプト・・・。「言葉と心象で思索する人の理想は神を求めること。神の形は種族によって異なれど、善意を感謝はすべて一致する。」と彼が述べるように、マークエステルは、世界中の神話に<善意と感謝>という共通項を見いだしている。そして、その原点をアジアに見出しているのだ。特に、日本神話に流れる精神、宇宙と人間が一つになっていこうとする姿に甚く惹かれているのだ。
マークエステルが芸術家になる決意を固めたのは日本だ。当時、シューマン外務大臣の秘書をしていた彼は、大阪万博に沸き立つ日本に初めて訪れた。そして、招待された清水寺で見た掛け軸に衝撃を受けた。墨の<にじみ>に動けなくなったのだ。
西洋美術史は科学の進歩と同列であり、即ち大自然をどうやって征服するかがテーマであった。然るに、眼前に展開する東洋の芸術は、紙や墨に身を委ねた自然との調和の美であった。正しく宇宙と作者との共同制作ともいえるものなのである。
その原点をマークエステルは今でも追い求めている。彼の芸術が醸し出す迫力は恐らくはこの東洋的な視点にあるはずだ。親交の深かった岡本太郎は、このマークエステルが描いているものを、「即ち生命の実存である。」と確信を持って述べている。
さて、今回の作品を見てみると、まずその迫力に驚かされる。力強い筆さばきは空間を割る大瀑布のようであり、ゆるやかな<にじみ>はすべてを浄化するガンジスの流れのようでもある。また、代表作は完全抽象が中心だ。だから鑑賞者はさらなる内奥へといざなわれる。作品とひとつになった鑑賞者は、宇宙の本質そのものを訪ねてゆくことになるのだ。
神話を描きつづけるマークエステルだが、彼が描きたいのは、神話の挿絵としての作品ではない。神話の中に流れる宇宙からのエネルギーを描きたいのである。彼は、墨のにじみの中にそれを感じ、ついにはそのにじみを油彩で実現することに成功したのである。それが宇宙との融合であったのだ。
古事記の究極形に辿り着いたマークエステルだか、そこには挿絵と隣り合わせの危ういものを含んでいる。神話の名場面を作品にしようとすると、芸術性の追求以外の解説を画面に入れる必要がでてくる。作品が説得力を持つには、いらないものを捨てることが必要だ。そして、その体現が東洋の宇宙との融合でもある。なぜなら、余白の中に美を見出すこと、そして抽象性の中に身を置くことが東洋の美の根幹であるからだ。
しかし、マークエステルはその危うい部分に足を踏み入れることは一切ないだろう。彼は、にじみから霊感を受けてアーティストになった。形態から入ったのではなく、流動性と融合性の中に宇宙のエネルギーを感じてそれを実現したアーティストなのだ。彼は、現在の作品に行き着くまでに徹底して抽象表現を追求している。染色の技法を求めてインドで研究した。漆を研究し、陶器の釉薬を追求し、ガラスの流動性を作品とした。そして、その上で神話の表現を開始したのだ。それゆえ彼の抽象作品は揺るぎがなく、迷いがないのだ。
今、マークエステルは、全世界の神話に共通したエネルギーを表現しようと格闘している。だからといって、悩みながら眉間にしわを作りながら作業を進めているのではない。彼は作品に色を入れる時に一切の悩みは無い。キャンバスの周りに五十色ばかりの絵の具を並べると、次に何色を置くかが自然に解るという。この感覚がにじみから得た霊感である。作家の力のみで意固地になって制作するのではなく、大自然のエネルギーを拝借するのだ。そこに自らの大きさをはみ出した超越的な力が降臨するのだ。
宇宙、その融合、それは人類に秘められた可能性を解き放す大いなるキーワードなのかもしれない。岡本太郎のいう「生命の実存」。是非とも確かめてみていただきたい。