加藤芳信は七十余歳の今に至るまでひたすら「点」を描きつづけて来た。その作家が点から「線」だという。一切の点が画面から消え去った劇的な展開は一体何を意味するのだろうか。
加藤の点は生命の点である。彼は少年時代に生命を知り、そして「点」に出会った。網元の御曹司だった彼は使用人の十六歳の娘に思いを抱く。しかし、その娘は環境に馴染めずに命を絶った。少年は人を死に追い込んで行く「見えない空気」の存在を知り、深山に分け入り自らの命をも絶とうとした。雪原で仰向けになった少年は、身体を包む雪の温かさを感じながら死を待った。すると、何処からともなく雪虫が出現して上空に意識を奪われてゆく。そこにあったのは黒い点であり、その点が後から後から自らに降り注ぐ未知の光景であった。少年の行き場のない魂はすっかり虜になり、気がつくと自らの死から救われていた。その「点」は単なる雪の結晶の陰だった。しかしそれは、確実に「見えない空気」を捉える究極の存在として少年の脳裏に刻印されたのである。それが加藤の「点」の原点である。この時彼は「空気」を捉え「点」極めることを生涯の使命としたのだ。
そして運命は、「空気」を捉えさせるために加藤芳信を芸術家へと導いて行く。彼は雪原で黙々と制作する木田金次郎に出会った。有島武郎の「生まれ出づる悩み」のモデルとなったその画家は、彼に芸術家の何たるかを黙して伝えた。芸大を受験にきた加藤は井上三綱と出会い「一本の花の成長を描き続ければ芸大以上のことが学べる」と言われて弟子入りする。そして、丸、三角、四角のみを描きつづけて抽象概念を深く体感。彫刻家樋口シンと意気投合してアメリカに滞在するが東洋の生命観に目覚めて日本に戻る。そうして布施を受けながら寺に隠って描き続けるが栄養失調になって下山。彷徨した末にようやく出会ったのが近世最大の庭師である久恒秀治であり、そこで作庭の奥義を伝授されるのである。
以来彼は、横・斜・径という作庭の原理に合わせて点を打って来た。だから点を打つ時に一切の悩みはない。ひたすら点を置いて行くのである。加藤は点を打ちながら、見えない空気を読む。「点を打ち続けることによって見えてくる何かがある」と、加藤は言う。横斜径は体感の美学である。西洋で言うところの哲学ではない。大自然と人が完全に一つとなった時に宇宙のすべてが自らの中に流れ込んでくるのだ。だからこそ見えない空気を読むことができるのである。
今回のテーマは「風」だ。第三の空気シリーズで「見えない空気」を表現した彼は、点から線を極めることによって、流れ行く風をも伝えようするのである。「線」は即ち横斜径の「径」であり、「路」である。「点」を極めた作者だからこそ描ける「線」があり、心眼としての「路」があるのだ。
自然界の生物は微気象を捉えながら生きている。部屋の中に蝶を放すと、その部屋の中の風がどう流れているのかが解るという。蝶は微細な風を見事に捉えながら風に乗るのである。その風を加藤は「点」によって捉え「線」で表現するのだ。点は線、線は面、面は空間、空間は大宇宙を表現できる。だから「点」には横斜径のすべてが内在し、如何なる展開をも可能にするのである。
「風」は空気ではあるが空気だけではない。遥かな「風」は様々なものを私たちに運び、不浄なものを拭い去ってくれる。しかし、自然との会話ができなくなった現代人は「風」を読むことができない。だからいつも不安なのである。漠然とした不安が心の闇に押し寄せてきては背伸びを繰り返し、その度に自らを矮小化して来たのだ。風を読み、宇宙と一つとなった時、宇宙と同じ大きさの自らに酔いしれることができる。加藤芳信の「風のシリーズ」、心爽やかに宇宙の声を聞くことができる作品群である。